バリ島なんて地球温暖化問題なんか無視して良いですね!?
2007.06.01 Friday
環境問題=バリ島なんて地球温暖化問題なんて無視して良いですね!?
バリ島では米国や中国、ましてや日本、そしてインドネシア本島に
比べたら、二酸化炭素の排出量なんてたいしたことはないですね。
だったら、バリ島では気にしなくてもいいのでしょうか。。。
環境問題が、二酸化炭素の排出に関わる点ばかりがクローズアップされています。いま世界的に着目されているのが、地球温暖化問題であるからですね。
京都議定書、排出権取引、これに伴う経済格差を基盤とする発展途上国の先進化への道筋の不公平感など、これらは世界経済に大きな影響を与え、二酸化炭素の排出に関わる解決策こそが今後の持続的な経済発展の鍵を握ると考えられていますね。この記事では、
http://eco.nikkei.co.jp/interview/article.aspx?id=20070529i3002
日本は世界の中で二酸化炭素を排出している割合は極めて低く、日本人の一人一人が省エネ活動をしても、排出量の削減には貢献しにくい、といった内容の文章とも読めます。そして、その結びとしては、排出量の多くにその責任がある中国や米国に対し環境行動の姿を提示する事が大切と、言っているんですね。この結びに関しては別として、世界的に見て日本はほとんど排出していないから、という表現は私には理解しにくいと思いました。
製品開発の発展を支えていったのは日本の技術力であり、海外に生産強化のための工場を数多く設置したのも日本ですね。再生紙が活用されない時代に、使い捨てのトイレットペーパーや割り箸を採るために海外の熱帯雨林を切り開いていったのも日本の存在が、そして日本の住宅は外材で賄われてきた(日本の林業が衰退もしてしまった)、もっと身近なところで言えば、日本のデパートやコンビにも海外へ進出していますし、日本人の自由な海外旅行を可能にした結果、世界中にお金を落とし、その落とされたお金で開発、経済発展をしている場所だってあるでしょうね。こうやって考えてみると、日本は世界の中で二酸化炭素を排出している割合は極めて低い、と本当に言えるのでしょうか。日本人の一人一人が省エネ活動をしても、排出量の削減には貢献しにくいんですよ、という事とも捉えられる可能性のある発言を簡単に言ってしまうのは、意味の無い発言のように思えてしまいます。
このように考えてしまえば、日本でももちろん、地球温暖化問題が主流ですから、環境問題=バリ島なんて地球温暖化問題なんて無視して良いですね、という論理が成り立ちかねません。先の結びの部分で、「環境行動の姿を提示する事が大切」とありますが、この意識を中国や米国ばかりでなく、世界に示していくんだ、という意識を日本人の生活意識や倫理観の中で備える事が大切なんだろうと思います。
私も小さな存在として、環境意識や環境活動に関して、どうやったら生活者の一人一人に意識の広がりが実現できるのだろうと、考え考え暗中模索で、環境プロモーションやコミュニケーションのお手伝いをしながら、研究も進めてきても、結局はマスメディアや政府、そして時代が解決をしてきて、それはそれで過程の一部である事、結果として環境問題への取り組みに拍車がかかってきた事は良い事でもあります。このように、私なんかの研究はさておいても、こういう思いを持ちながら何かを活動し続けてきた人々は多いと思います。だから、せっかくの環境活動に対する意識に広がりが見せて来たこの情勢で、「日本人の一人一人が省エネ活動をしても、排出量の削減には貢献しにくい」ということを科学的な知見から述べてしまって、生活者に対してはいかにこの意見が有効なんでしょうか。
環境問題への取り組みへの壁の1つに、「社会的ジレンマ」という考え方があるのですが、この意味するところは、自分一人が省エネと言った環境配慮行動をとっても、この広い社会の中で誰かやらない人がいる。だから、自分ばかりがやっても仕方ないので、やらない、と考えてしまう。この考え方からすれば、日本がやったって、中国と米国がやらないから、やらない。でも通ってしまいそうですね。
<ここで今日の記事の半分です。長くてごめんなさい(^_^;)/>
バリ島でよく見られるジャックフルーツの若い実
環境問題の議論ってこういう姿が意外に多いんですね。何か問題がある。その影響を肌で感じたり、なにかリスクを感じた人々(素人と呼ばれます)で議論が行われる、環境学の何かしらの専門家がコメントをする、そういうことは地球の全体の状況と未来予測から考えると、何も深刻になる問題でない事が科学的に証明されている、と、こたえる。議論は解決策も見つからず、止まる。温暖化の各現象だって、地球の誕生から死に至る地球単位での気候変動の一部である事例であるのか、判断がつかない事もあるようですね。ただ、地球史上からみると、本当は寒冷化に進むはずなんですね。
科学的な知見をお持ちの研究者の方々は、何か自分なりの研究成果や極論を持っているとしても、表現の仕方を考える必要があると思うんですね。こういう極論があるけれども、こればかりでなく地球にはこういうリスクが伴う可能性があり、現実的に生活者へはこういう影響が及ぶかもしれず、これを少しでも解決や回避するためにはこういう事が出来ますと、提案までも行える様な度量と技量が、発言に対しては必要だと思います。科学的に正しくないから、そう考えるのはおかしい、というのは専門家の中でやりながらも、その議論を生活者へも先の方法で伝えるべきです。
最近は科学的知見をいかに伝えるべきかを考える分野も、筑波大のサイエンスコミュニケーションという分野で進んでいるようですが。今までは、専門家の中では専門馬鹿が正しく、事象を噛み砕いてわかりやすく伝えたり、自分の視点に足りない点を横断的な分野で連携して全体像を考えたり、メディアを活用して説明したり、という動きは専門家個人がそういうセンスを持ち合わせているかどうかだけで、そういうセンスもカネの為にあると捉えられている場合も多かったですし、メジャーな考え方ではありませんでした。でも、今の世の中では科学者をはじめ、専門家という職業をお持ちの方すべてにその説明と提案の技量が求められていると思います。
話はずっとずっと元に戻して、バリ島の環境問題なんて、ここでは地球温暖化問題なんて、地球全体、特に中国や米国から見たら、ゼロに等しいほどしか二酸化炭素を排出していないから、微々たるもので関係ないんじゃない!?でいいですか。
もちろん、良くないですよね。先の「環境行動の姿を提示する事が大切」という考えは、世界共通で、バリ島だってまったく同じ土俵にある訳です。バリ島がインドネシアの環境先進“島”になってもいいんですよね。しかも、世界中からの人気の観光地ですから、これは世界中から荒らされていると言う考え方をポジティブに返すならば、いとも簡単に世界中の知が集められる島でもあるのです。バリ島が環境活動について議論できる最高の場かもしれないですし、取り組みを実践すべき必要性が多いにある現状があります。
まだまだお話ししたい事があるのですが、地球温暖化問題ばかりが先行して、他の環境問題はどこへ行ってしまったのでしょうね。地球温暖化問題は他の事象との関連性も深いと言えるのでしょうが、国際的に現在定められている地球環境問題というのは、1.地球温暖化、2.オゾン層の破壊、3.酸性雨、4.熱帯林の減少、5.野生生物種の減少、6.砂漠化、7.海洋汚染、8.有機廃棄物の越境移動、9.開発途上国の公害問題 ですね。それと環境問題と一緒にされたり、されなかったりなのですが、前近代型の公害問題の部類とも捉えられる、ゴミ問題があります。バリ島には、これらすべての要因となる問題が存在していると思います。でも、ほとんどが手を付けられていない気がします。バリ島の環境問題とは、政治的問題、人権問題、宗教問題、経済問題などと密接に絡んでいますから、環境問題という言葉がふさわしいとは言えないかもしれません。
うまく伝えられないかもしれませんが、私の研究の内容も含めて、少しでも外へ伝える努力をしたいと思っています。
これからもバリ島の環境問題の各事象について掘り下げていきたいなと思っています。
バリ島の魅力である「生命の息吹を感じる島」「伝統文化をまもる島」であることを指標に、環境問題の対策を考えていく基盤が必要なのかもしれませんね。
バリ島では米国や中国、ましてや日本、そしてインドネシア本島に
比べたら、二酸化炭素の排出量なんてたいしたことはないですね。
だったら、バリ島では気にしなくてもいいのでしょうか。。。
環境問題が、二酸化炭素の排出に関わる点ばかりがクローズアップされています。いま世界的に着目されているのが、地球温暖化問題であるからですね。
京都議定書、排出権取引、これに伴う経済格差を基盤とする発展途上国の先進化への道筋の不公平感など、これらは世界経済に大きな影響を与え、二酸化炭素の排出に関わる解決策こそが今後の持続的な経済発展の鍵を握ると考えられていますね。この記事では、
http://eco.nikkei.co.jp/interview/article.aspx?id=20070529i3002
日本は世界の中で二酸化炭素を排出している割合は極めて低く、日本人の一人一人が省エネ活動をしても、排出量の削減には貢献しにくい、といった内容の文章とも読めます。そして、その結びとしては、排出量の多くにその責任がある中国や米国に対し環境行動の姿を提示する事が大切と、言っているんですね。この結びに関しては別として、世界的に見て日本はほとんど排出していないから、という表現は私には理解しにくいと思いました。
製品開発の発展を支えていったのは日本の技術力であり、海外に生産強化のための工場を数多く設置したのも日本ですね。再生紙が活用されない時代に、使い捨てのトイレットペーパーや割り箸を採るために海外の熱帯雨林を切り開いていったのも日本の存在が、そして日本の住宅は外材で賄われてきた(日本の林業が衰退もしてしまった)、もっと身近なところで言えば、日本のデパートやコンビにも海外へ進出していますし、日本人の自由な海外旅行を可能にした結果、世界中にお金を落とし、その落とされたお金で開発、経済発展をしている場所だってあるでしょうね。こうやって考えてみると、日本は世界の中で二酸化炭素を排出している割合は極めて低い、と本当に言えるのでしょうか。日本人の一人一人が省エネ活動をしても、排出量の削減には貢献しにくいんですよ、という事とも捉えられる可能性のある発言を簡単に言ってしまうのは、意味の無い発言のように思えてしまいます。
このように考えてしまえば、日本でももちろん、地球温暖化問題が主流ですから、環境問題=バリ島なんて地球温暖化問題なんて無視して良いですね、という論理が成り立ちかねません。先の結びの部分で、「環境行動の姿を提示する事が大切」とありますが、この意識を中国や米国ばかりでなく、世界に示していくんだ、という意識を日本人の生活意識や倫理観の中で備える事が大切なんだろうと思います。
私も小さな存在として、環境意識や環境活動に関して、どうやったら生活者の一人一人に意識の広がりが実現できるのだろうと、考え考え暗中模索で、環境プロモーションやコミュニケーションのお手伝いをしながら、研究も進めてきても、結局はマスメディアや政府、そして時代が解決をしてきて、それはそれで過程の一部である事、結果として環境問題への取り組みに拍車がかかってきた事は良い事でもあります。このように、私なんかの研究はさておいても、こういう思いを持ちながら何かを活動し続けてきた人々は多いと思います。だから、せっかくの環境活動に対する意識に広がりが見せて来たこの情勢で、「日本人の一人一人が省エネ活動をしても、排出量の削減には貢献しにくい」ということを科学的な知見から述べてしまって、生活者に対してはいかにこの意見が有効なんでしょうか。
環境問題への取り組みへの壁の1つに、「社会的ジレンマ」という考え方があるのですが、この意味するところは、自分一人が省エネと言った環境配慮行動をとっても、この広い社会の中で誰かやらない人がいる。だから、自分ばかりがやっても仕方ないので、やらない、と考えてしまう。この考え方からすれば、日本がやったって、中国と米国がやらないから、やらない。でも通ってしまいそうですね。
<ここで今日の記事の半分です。長くてごめんなさい(^_^;)/>
バリ島でよく見られるジャックフルーツの若い実
環境問題の議論ってこういう姿が意外に多いんですね。何か問題がある。その影響を肌で感じたり、なにかリスクを感じた人々(素人と呼ばれます)で議論が行われる、環境学の何かしらの専門家がコメントをする、そういうことは地球の全体の状況と未来予測から考えると、何も深刻になる問題でない事が科学的に証明されている、と、こたえる。議論は解決策も見つからず、止まる。温暖化の各現象だって、地球の誕生から死に至る地球単位での気候変動の一部である事例であるのか、判断がつかない事もあるようですね。ただ、地球史上からみると、本当は寒冷化に進むはずなんですね。
科学的な知見をお持ちの研究者の方々は、何か自分なりの研究成果や極論を持っているとしても、表現の仕方を考える必要があると思うんですね。こういう極論があるけれども、こればかりでなく地球にはこういうリスクが伴う可能性があり、現実的に生活者へはこういう影響が及ぶかもしれず、これを少しでも解決や回避するためにはこういう事が出来ますと、提案までも行える様な度量と技量が、発言に対しては必要だと思います。科学的に正しくないから、そう考えるのはおかしい、というのは専門家の中でやりながらも、その議論を生活者へも先の方法で伝えるべきです。
最近は科学的知見をいかに伝えるべきかを考える分野も、筑波大のサイエンスコミュニケーションという分野で進んでいるようですが。今までは、専門家の中では専門馬鹿が正しく、事象を噛み砕いてわかりやすく伝えたり、自分の視点に足りない点を横断的な分野で連携して全体像を考えたり、メディアを活用して説明したり、という動きは専門家個人がそういうセンスを持ち合わせているかどうかだけで、そういうセンスもカネの為にあると捉えられている場合も多かったですし、メジャーな考え方ではありませんでした。でも、今の世の中では科学者をはじめ、専門家という職業をお持ちの方すべてにその説明と提案の技量が求められていると思います。
話はずっとずっと元に戻して、バリ島の環境問題なんて、ここでは地球温暖化問題なんて、地球全体、特に中国や米国から見たら、ゼロに等しいほどしか二酸化炭素を排出していないから、微々たるもので関係ないんじゃない!?でいいですか。
もちろん、良くないですよね。先の「環境行動の姿を提示する事が大切」という考えは、世界共通で、バリ島だってまったく同じ土俵にある訳です。バリ島がインドネシアの環境先進“島”になってもいいんですよね。しかも、世界中からの人気の観光地ですから、これは世界中から荒らされていると言う考え方をポジティブに返すならば、いとも簡単に世界中の知が集められる島でもあるのです。バリ島が環境活動について議論できる最高の場かもしれないですし、取り組みを実践すべき必要性が多いにある現状があります。
まだまだお話ししたい事があるのですが、地球温暖化問題ばかりが先行して、他の環境問題はどこへ行ってしまったのでしょうね。地球温暖化問題は他の事象との関連性も深いと言えるのでしょうが、国際的に現在定められている地球環境問題というのは、1.地球温暖化、2.オゾン層の破壊、3.酸性雨、4.熱帯林の減少、5.野生生物種の減少、6.砂漠化、7.海洋汚染、8.有機廃棄物の越境移動、9.開発途上国の公害問題 ですね。それと環境問題と一緒にされたり、されなかったりなのですが、前近代型の公害問題の部類とも捉えられる、ゴミ問題があります。バリ島には、これらすべての要因となる問題が存在していると思います。でも、ほとんどが手を付けられていない気がします。バリ島の環境問題とは、政治的問題、人権問題、宗教問題、経済問題などと密接に絡んでいますから、環境問題という言葉がふさわしいとは言えないかもしれません。
うまく伝えられないかもしれませんが、私の研究の内容も含めて、少しでも外へ伝える努力をしたいと思っています。
これからもバリ島の環境問題の各事象について掘り下げていきたいなと思っています。
バリ島の魅力である「生命の息吹を感じる島」「伝統文化をまもる島」であることを指標に、環境問題の対策を考えていく基盤が必要なのかもしれませんね。